籾摺りと“大規模化への警告”

bunshirou2006-09-27

昨日で稲刈りが終了したので今日は籾摺りだけ。でも籾殻を捨てにいかなければならなかったり(昨日の分捨てられてないので今日は二回捨てにいった。風が強かったので、なかなか大変でした。)次男のスイミング教室があったりで、全部終了させることができずに、明日に少し持ち越しました。
安倍新内閣の農林水産大臣松岡利勝さん。どんな人なのかよく知りません。各閣僚の就任の挨拶が何度もテレビで放送されていましたが、なんだか印象に残るコメントを残したのは留年のボケを演じた麻生氏ぐらいでしたか。農林水産大臣なら「全国の農家の皆さん、漁師の皆さん、・・・」と呼びかけるような挨拶があってもいいと思うけどなぁ。大臣はそういうことしてはあかんのかなぁ。就任の会見で、ぐっと百姓や漁師の心をつかまなあかんと思いますが。
そういや、昨日の「日本農業新聞」の「視点」のというコラムの“大規模化への警告”というのが、よかったです。民族研究家結城登美雄氏の文章です。品目横断的経営安定対策で小農が切り捨てられようとしている、ということなんですが、「耕す人の心を忖度せず、土地の広さばかり気にする農政からどんな展望が生まれるというのだろうか。1991年、30a以下の耕地しかない農家は自給的農家であると想定して80万戸の農家を対策対象から外した。今度は4ha以上の認定農業者と20ha以上の集落営農組織以外は農業者にあらずとでも言うかのように大多数の小農を切り捨てようとしている」として30年前に書かれた農学者守田志郎氏の文章を引用している。「耕している田んぼが小さいからといってなにも人間まで小さくなることはあるまいと思うのだが。田んぼが大きいとか、頑張って大きくしたとかでそれを自慢するのは、それはそれで気持ちもわかることである。そういう農家は家も大きいことであろう。それが嬉しいとすればそれもよくわかることである。だが、大きいのは家や田んぼだけのことなのだということを最近つくづくと感じさせられるのである。おせっかいの多い世の中だが、輪をかけたおせっかいがいるものだ。規模を拡大しろというのである。ほとんどみんながそうなのである。あんまりみんなが農家をつかまえてそういうものだから、田んぼの面積が小さいとか、それを大きくしないとかの農家は、なんとなく反社会的な存在のように思い込まされるようにさえなってしまっている。」(『農業は農業である』)結城氏のまとめは「果たして私たちは大規模化からどんな希望を手にしただろうか。耕す人はすべて農民である。種まき食を得る土地は大小を問わず農地である。そこで汗する人を支援するのが政策ではないのか。自分ではやらない人が立案した計画は論理や整合性があっても、しょせんは人と現実を変えることはできない。農業の担い手を選別するなら、その前に農政の担い手のありようを問うべきだろう。」いや、よい文章です。農政の担い手の第一番は農林水産大臣でありましょう。頑張っていただきたい。もちろん結城氏の文章も「現代社会を農業で生活していく」という視点で見たときどうなるのかと考えてしまうけれども。ニート団塊の世代の退職者に農業をやってもらおう、ではすまない話なのではある。